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認められた喜び



自分が「回避性人格障害」だと知って、とても うれしかった。

病気なことが うれしいのではなく、
ちゃんと病名があり、それは正式に社会に認知されている「病気」だということ。
この病状・症状の人間が、この世の中には多数に存在しており、自分もその中の一人なのだということ。

自分の存在を、やっと認めてもらえたような、
やっと自分を受け入れてもらえたような
そんな気がした。


「生まれてきて、ごめんなさい」というのは、太宰治の「人間失格」に出てきたセリフだったろうか。

しつけに異常に厳格で、自分の感情を制御・抑制できない子供のような父親と
すべては自分のコンプレックスから来る言動だと気付けず子供に恩を押し付け続けてきた母親。
この両親に育てられた。何の疑いもなく、自分に対する無価値感をすり込まれ続けた。

未だに「あんなに○○してあげたのに」「あれほど××してあげたのに」と平気で言う母。
それが自分のコンプレックスを埋めるために子供に強要し続けた行為であったことに
母は、まったく気付いてはいない。

父は、病気で数年前に他界した。
誠実で自己中心的で臆病でガキな父親だった。
ガキという言葉に愛情は含んでいない。
子供に対して、家族に対して自己感情を抑制できない人間だった、という意味だ。
死んだ人間には、今さら恨みもない。

父は不思議と人生後半は驚くほど弱くなり、私には再三に詫びの言葉をかけてきた。
謝って欲しかったのではない。
私の人生を返して欲しかった。
が、居なくなった人間に、過ぎてしまった時間に、何を求めたところで無意味だ。

出来うることなら、母とは縁を切りたいと常々願っている。
育ての親に対して何と恩知らずなと言われてもしかたがない。
私にとってメンタルに対する禁忌、最悪の呪縛は、この母親なのだから。

精神科医や心理カウンセラーの著書には、そういう親とは縁を切れと平然と書かれている。
簡単に切れるものなら、誰も苦労はしない。
縁を切るなどと簡単に言い切れるのは親が元気なうちだけだ。

介護が必要になった親に対して、絶縁し切れるか?
「みんな、お前のせいだ。金輪際の縁を切ってやるから野垂れ死ね」と言い放てるか?
それが出来れば立派だ。
それが出来ないから、できない人間だからこそ、親との関係に悩み続けてきたのだ。
そして私は、その日が、母を介護しなければならないだろう日が確実に来ることを心の底から恐れている。
生き地獄になるのは目に見えているから。
母より先に死ねたら、その不安は消えるのだが。




げんなりとするエピソード。
昨年の秋、私は母に一泊旅行に誘われた。
駅からホテルの送迎バスに乗せられ、古いリゾートホテルへと入った。
その晩、懐石ディナーのテーブルで母に言われた。
「誰も敬老の日をお祝いしてくれないから、自分でこのツアーの予約をしたのだ」と。
誘われたのではなく、これ見よがしに巻き込まれたのだ、私は。
そして恨みがましく、誰もお祝いしてくれないから自腹で来たと言い放たれた。
だったら、一人で来れば良かっただろうと思ったが
そのツアーが2人でなければ予約できないツアーだったから、という。

そういうあなたに対して、いったい誰が何をしたいと思うと思うのか。
ツアー料金(ホテル宿泊費と交通費)は母が支払っていたため
残りの全行程での飲食代やタクシー代などの費用は、すべては私が支払った。

一緒に同じ場所での空気を吸うだけで、私の病状は悪化するというのに
その母と無理をして、それでも日頃の不義理の埋め合わせに親孝行をしなくてはと
誘われた旅行に付き合った結果が、この仕打ちだ。

母にしてみれば、他のセレブな友人たちのうらやましい話を見聞きして
自分もコンプレックスが満足するような状況を作りたかったのだろう。
その友人たちに、母は「娘に敬老の日で誘われたから○○ホテルへ遊びに行ってきます」と告げて
句会だか何だかを欠席してきたらしい。

セレブと呼ばれる人種と交友関係を持ちたがるのも母のコンプレックスから来る。
そして自分の生活レベルとは かけ離れた彼女たちの生活ぶりに触れ
さらにコンプレックスを肥大させ、その矛先が こちらに向かってくる。
自分のあるべき場所を見失っている母にとって、本来の母自身の姿は、母には受け入れなれないものらしい。



物心つく前から、私は母が人を見下す言動をしていたことしか記憶がない。
よく母のいない場所で親類の伯母たちから「○○ちゃんのお母さんは本当に偉いね」と言われたのを覚えている。
ことあるごとに伯母たちを蔑みバカにしていた母の言動を伯母たちは知っており
「いったい何様のつもりか」と逆に嘲り笑っていたのを私は知っていた。
「偉いね」と褒めていたのではなく、「ご立派ね」とバカにしていたのだ。

それを笑いながら、娘である私に言う大人げない伯母たちが醜いと感じ
そういう嘲笑を買うような言動しかできない母の娘である自分が惨めで情けなかった。

自分の価値のなさ、私は こんなに価値のない人間ですと、徐々にすり込まれていった。

クズのような母の娘で、母のクズのような子供で、人から笑われるような位置に居る人間で
どれほど勉強をしたところで成績は中の上以上にはならず、さして苦労もせず学業優秀だった弟のようには
母のコンプレックスを満足させることはできず
ただ毎日、父の感情に翻弄され、母のコンプレックスに振り回され、
家庭の中で安心して居られる場所は、どこにもなかった。




その当時、子供の頃。私は父の実家の庭うち、祖母の家の隣に家族で住んでいた。
小さな子供の唯一の逃げ場所は、この祖母の家だった。

まだ曾祖母も存命中で、火鉢の前に座っている祖母と、その同じ座敷の奥の小さな炬燵に入って座椅子に寄りかかっている曾祖母の姿が
その祖母の家を思い出すときに、今でも脳裏に浮かぶ。

が、後に その家から、母のバカさ加減の結末として私たち家族は追い出されることになる。

バカな大人たちに囲まれて育った結果、地元の両家の子女だった私は
着実に精神を病んでいくことになった。



この記事の画像は検索ワード「森山大道 殺人」でヒットした画像を貼らせていただきました。





最後まで ご覧いただきまして ありがとうございました。
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