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第一話 天竜峡




第一話 天竜峡

 東海道新幹線の豊橋駅から飯田線という1時間に1本しかない在来線に乗り継いで更に1時間ほど。
終電で天竜峡手前の温田駅に降り立ったのは、夜9時過ぎ。
町中でしか生活をしたことのなかった私は、駅舎以外に何もないその場所で、しばらくぼんやりとしていた。
思い付きで飛び出してきたのだから、今夜の宿などあてはない。
温田へ行く。
それ以外、何も考えてはいなかった。
ここへ来たのは、彼の昔の任地だったから。
「山と川だけで、本当に悲しくなるほど何もない所だった」という、その一言を覚えていたから。
南信州の渓谷近くに位置する総合病院。その周りで探そう。知る人の誰もいない場所で。
家を飛び出したときバッグへ入れたものは、精神病院で出された薬全部。1,2日分の簡単な着替え。
遺書とネット通販で買った自殺マニュアル。私は死ぬために、ここへ来た。だから宿など、どうでも良かった。
駅前の喫茶店かバーか何かで夜明かしできればいいと思っていたが、まさか本当にここまで何もないとは思わなかった。
駅前には、もうとっくに閉店したらしいタバコ屋さんが1件。駅前だというのに終電が去った後には街灯はおろか明かりの一つさえもなく、
人気のない見ず知らずの場所で、これからどうしたものかと途方に暮れた。

 暗さに目が慣れてくると、線路沿いの木製のフェンスに四隅がはげて錆びているブリキの看板が目に付いた。
地元のタクシー会社の広告。タクシー会社といっても個人経営のようだったが、
他に思い当たる考えもなく、その広告の番号に携帯で電話をかけてみた。
「もう今日は、終わろうと思ったんだけどねえ」
都会のタクシーなら夜9時といえば場所によっては稼ぎ時の真っ最中だろうに。
つくづく利用者はいないのだろう。終電後に駅前でタクシーを探す客など皆無に違いない。
「お客さん、ひとりなの?しょうがないねえ」
電話の向こう側で、カチャカチャと食事の支度をしている音が聞こえる。もう今夜はあがって晩酌でも、と
奥さんが肴を準備するのを待っていたところだったのだろう。
人通りは全くない、その狭い路地のような駅前の通りに黒いタクシーが止まったのは15分くらい後のことだった。
「どちらへ?」
50代くらいの白髪の運転手さんは、訝しげに後部座席のドアを開けた。
「明日、知り合いに会いに行く予定で来たんですが、今夜泊まる所を決めていなくて。どこか泊まれる所、ありませんか」
口からのでまかせだったが、明日 彼の任地だった病院を見に行ってみようと思っていたので、とりあえず今夜は夜を明かせる場所が欲しかった。
「宿ねえ。その知り合いは駄目なの」
「明日会う約束になっているので、今は温田にはいないんです。屋根のあるところなら泊まれなくても喫茶店か飲み屋さんでも構いません」
「ふうん」
私が乗り込むとドアを閉めながら
「そんなもんないなあ。女の人一人で野宿ってのも物騒だしなあ」
しばらく考え込んだ後
「一軒だけ旅館があるんだけどさ、泊めてもらえるかどうか行ってみないとわかんないけど。そこ、行ってみるかい?」
「はい。お願いします」
タクシーのライトに舗装されていない道から舞い上がった土埃が照らし出された。そこしかないというのなら仕方がない。
駄目なら、そのままタクシーでもう少し繁華街風の所まで送ってもらおう。

 古ぼけたガラス格子の引き戸の奥で運転手さんと旅館の奥さんが、こちらを見ながら話している。
「お客さん、空いてるってさ」
代金を渡し、お礼を告げてタクシーを見送った。
やはり訝しげな表情の旅館の奥さんとそのお母さんらしい老婆が私を見ている。
「もう、お夕食終わっちゃったから出せませんけど」
「いえ、今夜一晩泊めていただければいいだけですから」
旅館といっても民宿のような所だった。家族用の居間の隣の部屋へ案内された。
「ここですけど。お布団は好きなの使ってください。お茶とお菓子くらいしか出せないけど」
「いえ、本当にどうぞお構いなく」
「明日の朝食は出せますから」
それだけ言うと旅館の奥さんは居間へ戻って行った。板の襖一つで隔てられた
一人で使うには広過ぎる12畳ほどの客室の隅に立て掛けてあった卓を部屋の角に置いて
積み上げられた座布団を1枚取り出して座ると、やっと着いたという気がしてため息が出た。
旅館の奥さんが出してくれた魔法瓶とお茶のセット。小さなお饅頭の乗ったお皿。それを脇に押しやって、窓を開けると窓際でタバコに火をつけた。
一階の客室は中庭に面していたが中庭といっても、ごく普通の家庭の手も入れていないような洗濯を干すときに行き来する程度らしい庭。
月明かりに照らされて何か植木が無造作に枝を伸ばしているのが見えた。
「明日、かな」
数本のタバコを吸い終えると、明日 一気に飲むために就寝前に服用することになっていた精神安定剤と睡眠導入剤は飲まずにおいた。
明日、できるだけ多くの薬を一気に飲みたかったから。もう今夜は眠れなくても構わない。もう、眠る必要などないのだから。
訝しげにしていた旅館の人達に、眠っている間に手荷物を調べられても良いように遺書と自殺マニュアルは、
布団の枕の下に隠した。誰がどう見ても挙動不審。通報されても不思議ではない私だったのだから。

 翌朝、広間で朝食を摂って欲しいと旅館の奥さんが呼びに来た。
気持ちは高ぶっていたものの、さすがに疲れていたらしく呼ばれるまで自分が眠っていたことに気付かなかった。
広間と呼ばれた部屋は二階の風通しの良い部屋で、小さな宴会くらいはできそうな広さだった。
旅館は1軒しかないといっていたから、おそらく地元の人達が宴会をするときに利用したりするのだろう。
昨夜は気付かなかったが、私の他に家族連れと男性同士の客が2,3組、一緒に広間で朝食を摂っていた。
他の泊まり客が、連れもなく女一人の私を好奇心混じりに遠目で見ているのに気付いた旅館の奥さんは、私に朝食のお膳を運びながら
「お客さん、今日は何時頃お友達と会われるんですか?」と、わざと聞こえよがしに私に問いかけてきた。
そんな気遣いがありがたく申し訳なく思いながら、
「A病院で待ち合わせているんです。以前、そこに勤めていた人なので」と嘘をついた。
「ああ」と奥さんは、迷うといけないからと病院までの行き方を教えてくれた。
私は極度のうつ病からくる摂食障害のため拒食症でミイラのような体型になっていた。
一週間に1,2度一食摂るか摂らないかの生活。あとはタバコとコーヒーと、少しばかりの果物で生きているようなものだった。
「このあたりで採れたものばかりなんですよ」と奥さんに勧められた朝食のお膳は、雑穀米と塩鮭、山菜の佃煮や煮物だった。
ここで食べなかったら、また不信に思われるかもしれない。今度こそ本当に通報されてしまうかもしれない。数日ぶりに食べた食事。
ずいぶん長いこと動かしていなかったせいか両顎の付け根が痛んだ。食べることに使う筋肉が硬直してしまっていたらしい。

 メモ程度の宿帳を書かされて料金を支払うと旅館を後にした。
バス通りだという山道を歩いた。久しぶりに摂った食べ物のせいで胃に異物感がある。
遺体の中に、この食事は どの程度消化された状態で残るのだろう。そんなことを考えながら、一人山道を歩いた。
山道とはいえバス通りというだけあって道は整備されて舗装されていた。畑や果樹園の並ぶ車の通らないバス通り。
ときおり通り過ぎていく車の運転席から、一人で歩いている私を不思議そうに眺める人。
おそらく私がここでしていることは、この町の人達にとっては普通ではないことなのだろう。
この町だけではなく、普通ではない。そう。私は普通ではないのだから。
 山道を30分ほど登り大きな橋を渡った所にA病院はあった。彼は若い頃ここで数年間務めた。
毎日何を考えていたのだろう。その頃付き合っていた女性とは、彼女が仕事を続けたいという理由で別れ、一人この病院へ赴任してきたといっていたが
本当のところ未練はあっても彼は別れたがっていたのではなかったのか。ちょうど良い口実になったのではなかったか。そんな意地の悪い想像をしたりした。
彼の務めていた病院を見てみたかったという以外、その病院に何の用があるわけでもなく、無論 彼はいない。
病院玄関前のバス停で駅行きのバスを待ち、外来診療後の患者のような顔をして当たり前のようにバスに乗り込むと温田駅へ戻った。

 昨夜着いた時と同じ、あたりに人影はない。1時間に1本の次の電車まで、まだあと30分以上ある。
急ぐ必要などなかったが何もない駅で、いつまでも一人でいたくはなかった。
昼間は、いちおう客待ちをするらしい。昨夜は閉店していたタバコ屋の奥さんと昨夜とは違うタクシーの運転手さんが缶ジュース片手に世間話で談笑していた。
「すみません。乗せてもらえますか?」
二人は会話をやめ私の方を振り向き、運転手さんは吸いかけのタバコを水の入った吸い殻用の空き缶に放り込みながら
「ああ、どこまで?」と聞いてきた。
「天竜峡まで、お願いします」
「ああ、いいっすよ」
それじゃ、とタバコ屋の奥さんに手を振ると運転手さんはエンジンをかけた。
温田の知り合いに会ったあと、一人天竜峡で観光をして帰る客を装い、タクシーの中で観光案内をしてくれる運転手さんの言葉に空返事をしながら
幾つかの峠を越え天竜峡の駅に着いた。

 今日、と思っていたのだから探す必要などないのに、天竜峡へ着くとまず私がしたのは宿探しだった。
小規模とはいえ観光地だけあって、昨夜の温田とは違い、まだ午前中ということもあり人も多く、宿泊施設も何軒か見つかった。
駅前の観光案内所で、駅のすぐ目の前のホテルという名の古い旅館を紹介され、そこへ入った。
オフシーズンなので他にあまり泊り客はいないらしく、やはり広い部屋へと通された。
広いという以外、何の取り柄もない畳の部屋。飲み物の自動販売機しかないホテル。
駅前は、土産物店はあるがコンビニのようなものは何もない。ホテルでは食事は出ないという。
別に欲しくなかったが少し驚いた。ホテルの周りに飲食店があるから、適当にそこで取って欲しいという。
昔はともかく、昨今では日帰りの観光客しか来ないのだろう。
ホテルの中には簡単な、昼間だというのに、まだ「準備中」の札を出した狭い喫茶店のようなスペースがあった。
おそらく夜、お酒を出す程度の利用しかしていないのだろう。

通された部屋で缶コーヒーを開け、タバコを吸いながら、場所を探さなくてはと考えていた。

死ぬ場所。

どこでも良いというわけには行かない。いくら大量に薬を飲んでも死ねないことくらい知っている。
薬を飲んで意識が朦朧としたところで渓谷に飛び込もう。それには人目に付かない時間と場所を探す必要がある。
カウンターの女性に「お出かけですか?」と、ジロジロと見られながら
「散歩してきます」とホテルを出た。
まだ昼間で明るく、どこかの老人会のツアーらしいグループや初老の夫婦連れの観光客がウロウロしていた。
時間は夜。人のいない時間。薬を飲んで飛び込めばいい。夜なら川に流されて遺体の発見は遅れるだろう。
人目に付かずに飛び込めそうな場所を。川から渓谷を見上げると遊歩道があった。数カ所、気になった断崖があったので
そこまで行けるかどうか遊歩道を登ってみた。9月後半の残暑の陽射しが照り付けていた空は、いつの間にか曇り始めて、湿気を帯びた遊歩道はジットリとしていた。観光客は誰も登っていなかった。渓谷を川側から見上げて眺めたら帰っていくのだろう。

 湿気で滑りそうな落ち葉を踏みながら考えた。私が、ここで死んだと知ったら彼は少しは考えてくれるだろうか。
なぜ私が他のどこでもない、この場所を選んだのか。私が、この場所を知っている理由は彼しか知らない。
彼に縁のある、最も一人で死ぬに適した場所だったから。私が死んだら、彼は私を忘れてしまうのだろうか。
それとも永遠に拭い切れない傷として心のどこかで、雨の降る前の傷跡のように何かの加減で軽い痛みと共に思い出してくれることもあるのだろうか。
なぜ死ななければならないのかなど考えもしなかった。
死にたかった。
ただ、死にたかった。
いっそこのまま自分が誰かも分からないほどに気が狂えたら、どんなに楽だったろう。
でも自分が壊れただけで、心が壊れただけで、自意識は最後まで しっかりしていた。
 自分を追い詰めて、こうして死を選ぶことで彼をも追い詰めて、それでもそうせずにはいられない、そうすることしか選べない。
廃人のように身も心も壊れてしまえたら。でも壊れなかった。中途半端に壊れていた。
誰がどう見ても普通の状態ではない私でも、それでもまだ生きていた。
心が死んでくれないのなら、体を殺すしかないでしょう。それが死にたいと思った理由だった。
 ある程度まで遊歩道を登り、もういいだろうと引き返した。一度ホテルへ戻り、夜 薬を持って改めて来よう。
昼間でも人気のないこの遊歩道なら、夜は誰にも見られず上まで行けるに違いない。ホテルに戻って夜を待とう。

 日没と同じくして雨が降り始めた。相変わらず暇そうにしているホテルのカウンターの女性に
「食事に行ってきます」と告げ、閉店間際の土産物店でビニール傘を買った。
小さな手提げに薬だけを入れ、遺書や荷物はホテルへ置いてきた。身投げするのだし、この雨では遺書は読めなくなってしまう。
荷物と一緒にホテルに置いておく方が間違いない。免許証や病院のカードが入ったお財布も荷物の中。
明日のチェックアウト時間を過ぎたらホテルから私についての通報が警察へ行く。そこで身元も分かるだろう。
薬を飲むために小さなペットボトルのお茶を持った。
 昼間、確認した遊歩道を再び登り始める。やはり誰もいない。登り進むにつれ雨足も強くなってきた。
登りながら、「ああ、これでやっと 」 そう思っていた。
こうなるずっと昔から、私は常に希死念慮に捕らわれていた。ずっと昔。物心付くか付かないかの子供の頃から。
「早く死にたい」 いつもそう思っていた。
決して抵抗はしない。するだけ無駄だと知っていたから。常に順じた。親にも友人にも、何もかもに。

 自分の命を自ら絶とうと思うほど人を愛したのは、これが初めてだった。私の人生で三度しかなかった恋愛。
彼との、この三年間は私にとっていいようもないほど、濃く重いものだった。
彼とは永遠に一緒にはなれないと知りつつ、それでも諦めのどこかに期待が残っていた。
私が温田へ来たことを彼は知っている。
何をしに来たかも、おそらく彼は知っている。
気付いていても、それに気付かない振りをしている。
私が死んだら彼は楽になれるのかも知れない。もう私のことで悩む必要は何もなくなる。
もしかしたら、これは彼も望んでいることなのかも知れない。私に死んで欲しいと。
私がいなくなれば、私の情念がこの世から消えてなくなれば、彼は楽になれる。
苦しんでいるはずの私が苦しめているのは彼。これは、お互いに望んだこと。
そう思いながら暗くなった遊歩道を登り続けた。雨足は、どんどん強くなる。この分だと増水して川も流れの勢いを増しているに違いない。かなり登ったが、まだ断崖へ出られる場所にはたどり着けなかった。激しく雨の降る音と足下の渓谷の川の流れ以外、何の音も聞こえない。あと少し、もう少し。周囲は、すっかり暗くなって足元も見えないほどになっていた。
あとどれくらい。もう、あとどのくらいで着く?
あとどれだけ登ればいい。あと何分、生きていたらいい。
雨水が山道を小川のように流れて足元を悪くする。滑らないように、転ばないように。ここで怪我をして先へ進めなくなったら意味がない。
あと少し。あと少し。
土砂降りの天気とは裏腹に、私の心は渇いていた。
乾いて乾き切って、もう涙さえ出ては来なかった。
命をかけて、あなたを愛しましたと、こんな形でしか証を立てられない自分が情けなかった。
あと少し。もう少し。

 夜になり土砂降りの中、暗闇に慣れ切った私の目に、突然もの凄い光が射し込んできた。
「誰かいるんですか?」
光の射す方向から男性の声がした。渓谷の監視員さんだった。
「崩落の危険がないかどうかチェックして回っていたんですが。私も、もう降りますから一緒に降りましょう。
危ないですよ」そういうと私の答えは待たず、私の腕を掴むと一緒に歩き始めた。
「足元、滑りますから気をつけてください」
監視員さんは、それだけいうと後は無言で、ずっと私の腕を掴んだまま山道を下り続けた。
何も言わず何も聞かず、ただお互いに黙って歩き続けた。延々と、ただ下を向いて傘は役に立たず、ずぶ濡れになりながら、ただ歩き続けた。
今まで登ってきた道を引き返し続けた。
遠ざかる、遠ざかる、遠離る。

 遊歩道の入り口に着くと「どうぞ」と車のドアを開けられ、乗るように促された。
ホテル近くまで送られて、私は そこで降ろされた。
「宿までは、お分かりになりますか?」
「はい」
「じゃ、お気を付けて」
それだけ言うと、監視員さんの車は走り去った。

死ねなかった。 私は、まだ生きている。

 これほどの小さな観光地なら、もう私の情報は とっくに関係者には伝わっていたに違いない。
挙動不審の旅行者あり。要注意、と。

ここで同じことをしても、また同じことの繰り返し。
どうして、もっと確実な方法にしなかったのだろう。何を望んでいたのだろう。
あの光の主が、彼だったら。

あり得ない。

私の望みは叶わない。

死ぬことすらも、 かなわない。





最後まで ご覧いただきまして ありがとうございました。
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