第二話 雑木林
第二話 雑木林
死に切れぬまま、明け方の高速バスで私は新宿へと戻った。
携帯には何度も夫からのメールや留守電が入っていた。
家へ戻ると警察へ捜索願いを出されていたことを知った。自宅まで刑事さんが事件性がないかどうかの事情聴取に来たという。
夫は言いたいことはいろいろとあっただろうけれど、私が家へ戻ってすぐには何も言わなかった。
まだ幼い子供達は、私の顔を見れば それで落ち着いたらしく、いつもと変わらない様子だった。
数日後、私は彼に会いに行った。「温田のお土産があるから」と。
「一度どんなところか見てみたかったから」という私に
「温田、何もなかっただろ?」
「そうね。良い所だったわ。天竜峡、きれいだった」
「一緒に行けたら楽しかったな」
「・・・そうね」
私の職場近くまで迎えに来てくれた彼の車に乗る前に、私は大量の薬を飲んだ。死ぬつもりで温田へ持って行って、そのまま持ち帰った薬。
それだけの量の薬を飲んだら、どうなるのか分からなかった。どうなってもいいと思った。
彼と一緒の時に薬を飲んだら、彼はどうするだろう。彼の本当が分かるかもしれない。
彼を試すつもりなどなかったが、彼と一緒の時に、どうにかなってしまいたいと、そう思っていた。
彼の車の中で、私は深い眠りに落ちた。
大量の精神安定剤と睡眠導入剤を飲んだ結果。私の意識は、なくなった。
翌明け方、気付くと私はひとり、見知らぬ雑木林の中にいた。
彼は一晩中、私を車に乗せたまま途方に暮れ、出勤時間の迫った彼は困って、私を職場の病院近くの雑木林へ置き去りにして去っていた。
まだ薬の残る朦朧とした意識の中、私は彼の名を呼び続け、雑木林の中を這って、彼の姿を探した。
自分がどこにいるのかもわからず、自分に何が起きているのかもわからず。
手足は擦り切れ、何度も転んでは這い起きて彼の名を呼び続けた。
着ていた小花柄のワンピースは枝に引っかかって千切れて破けた。そ
れでも、這って彼を探した。顔は涙と倒れ込んだときの土でドロドロになり、膝には血が滲んでいた。
意識がハッキリしないので、良く目が見えない。霞の中を手探りで這い回っているような錯覚に落ちる。
何度も何度も、彼の名を呼び続けた。泣きながら、彼の名を呼び、這って探した。
「いったい、どうしたの。どこへ行ってしまったの」
でも、彼は現れなかった。
数時間後、彼の勤務先の看護婦さんが出勤途中で通りかかり私を見付けてくれた。
彼女が私を見付けたとき、私は地面に這いつくばってカラスに向かって何か話しかけていたらしい。
彼の病院へ運ばれはしたものの通院患者ではないからという理由で受け入れてはもらえず、家族に引き取り要請の連絡が行った。
仮のベッドに寝かされていた私を、看護婦さんと一緒に彼が様子を見に来た。
ベッドのカーテンを軽く開けて私を一瞥すると何も言わずカーテンを閉じて去って行った。
ただの一言も交わすことさえできなかった。
そして私は引き取りに来た夫に連れられて、通院していた精神科の担当医の指示で精神病院へと強制入院させられることになった。
常軌を逸した行動。世間から見たら私は壊れてしまっていたらしい。
連れて行かれたのは、埼玉県にある総合精神病院。
それまで通院していた総合病院の精神科と提携している病院だった。最寄り駅からバス停6つ目ほどのところ。
病室は三人部屋だった。壁にピッタリとベッド上部がくっついて、壁に沿ってベッドが3つ川の字に並んでいる。
その一番端の廊下側。窓側のベッドには、初老の女性。真ん中の隣のベッドには、やや肥満の20代前半らしい女性だった。
窓は風を入れようと思っても20センチくらいしか開かない。窓から逃げられないように。
そして窓から誰かが入ってこないように。病棟に囲まれて中央に運動場があった。
ジャージ姿の男女が甲高い声で笑いながら、ドッジボールか何かをしていた。運動療法だという。
病院の敷地は高い塀に囲まれている。脱走防止のため。
病院の隣は、古新聞や古雑誌を処理する廃物処理場だった。
ゴミの山の隣の病院。自分も人間のクズのような気がして気持ちが更に重くなった。
私は、ここで何をして過ごすのだろう。
ずっと無断欠勤のままの仕事。仕事など、どうでも良かった。
ただ怠くて重かった。
頭の中に泥が詰まってしまったように何も考えられなかった。
彼のことを思った。
薬を飲んだ私を雑木林へ置き去りにして、そのまま仕事へ行ってしまった彼。
その後、連絡は取れていない。
携帯やパソコンから何度も何度もメッセージを送った。
医師だから仕事中は携帯に出られないので、常に留守電状態になっている彼の携帯。そこにも何度かメッセージを入れた。
でも何も連絡の取れないまま、私は精神病院へ強制入院。精神病院内では、携帯もパソコンも使用も持ち込みも厳禁。
外部からの刺激は治療の妨げになるというのが理由。
どうにかして彼と連絡は取れないものか。連絡がないということは、もう捨てられたと思わなければならないのだろうか。
それであれば、キチンと彼の口から、彼のメールから、「別れよう」の言葉が欲しかった。こんな中途半端な状態では、気持ちの区切りが付かない。
捨てられたとは思いたくなかった。彼の言葉を、彼の気持ちを信じていたかった。
入院初日の晩。出された食事には手を付けなかった。
隣のベッドの子が、ペチャペチャ、ズルズルと音を立ててガツガツ食べる姿が汚らしくて、まるであさましい意地汚い餓鬼の姿を見るようで
食事の時間が終わるまで病室を出て喫煙コーナーのソファに座った。
考えてみれば、私も同じようなものかも知れない。あさましく飢えていて。何に?彼の愛情に。
彼の、夫の、すべてのことからの愛情に餓えていた。心の底から真の愛情を感じることのできなかった自分の過去。
愛情と信頼を得るためには、必ずその代償を求められた過去。
とても疲れていた。体が重くてボロボロだった。
うつろな目でボンヤリと吐き出したタバコの煙を眺める。ゆらゆらと空気と混じり合いながら消えていく煙。
消えてしまいたい。消えてしまいたい。タバコの煙のように。
死ねなかった。だらしなく生きている。そのまま消えれば良かったものを、私は おめおめと温田から家へ戻った。
そして彼に雑木林に捨てられた。結局、そういうことだったのかもしれない。
私が愛し過ぎただけ。信じて、心の底から信じて愛した相手に、また裏切られるのだろうか。
また、私は裏切られるのだろうか。私が心の底から信じられる相手は、この世にいないのだろうか。
唯一、院外との連絡手段はロビーにある公衆電話だけだった。
彼は、ほとんど病院に寝泊まりしていて家へは帰らない。
奥さんとも別居状態。
熱心に患者さんを診ようと思ったら家へなど帰れない。そんな彼が好きだった。
彼と連絡を取る一番良い方法は、夜 病院へ電話をかけること。
病院の当直担当の事務へ電話をかけた。彼は、まだ夜間の病棟回診中だった。
改めて電話をかけるから当直室へつないで欲しいと事務担当者に告げて、自分の病室へ戻った。
頭が重い。過量服用した薬が残っているのと病気のせいと。初めての精神病院での入院。その初日。気持ちが落ち着く筈はない。
夜の精神病院の病棟の中は静かではない。
眠れないと訴える患者や、不安定になって叫び出す患者。絡んでくる患者やブツブツと独り言をつぶやきながら病棟の廊下中を歩き回る者。
昼間は、それぞれ治療プログラムで各治療を受けているので病棟内は静か。聞こえるのは音楽療法の時間の歌声が漏れ聞こえてくるのと
ホールで作業療法をしているときのカウンセラーさんの指導する声。運動療法が行われている高い塀に囲まれた刑務所の中庭のような運動場。
私は、いつまでここにいれば良いのだろう。いつ出られるのだろう。いつまで生きていなくてはならないのだろう。
いつまで・・・。
彼が当直室へ戻るのを待つ間、喫煙コーナーのソファに座った。タバコに火を付ける。喫煙が許されるのは朝7時から夜9時まで。それ以降は禁止。就寝時間は、
ライターを片付けられてしまうから。放火や焼身、自傷に入院患者がライターを使うのを防ぐため。
危険物の所持は厳禁。刃物は勿論、化粧用の小ハサミも所持は禁止。毛糸の編み棒でさえ就寝時間には没収される。
常時、所持が許されるのは衣類と洗面用具だけ。
症状が重いと筆記用具や事務用品も没収される。
とにかく衝動で何を使って何をするかわからないから。
喫煙コーナーのソファに、中年の男性が座っていた。ずっと貧乏揺すりをしている。タバコを持つ手が震えて灰が床に落ちている。少し離れて座った。
吸い殻入れに灰を落とそうと手を伸ばすと、数人の患者がやってきた。
どうやら、この時間は仲間同士、喫煙者同士、会話をする習慣になっているらしい。
数人が、いつもの決まった席らしい位置に座って話の続きをしている。
私に気付き、声をかけてきた。
「今日から?」
「・・・はい」
「ふうん」
ジロジロと見たあと、興味なさそうに、また話の続きをし始めた。
他に患者が喫煙できる場所はない。トラブルが起きないよう、危険物のある場所は必ずナースセンターから監視できる位置にある。
目の前を注射セットを持った看護師さんが走っ行った。彼の走り去った先の病室から叫び声が聞こえる。落ち着かせるための注射を打ちに行ったのだろう。
病棟の看護師さんは、女性より男性の方が多い。普通ではない大の大人を力尽くで押さえ付けなければならないのだから、女性では腕力にはかなわない。
私も、この人達と同じ。病気の患者なのだと思い知らされる。頭が壊れていようと、心が壊れていようと、扱いは同じ。
どんなに必死で何を訴えても、まともには取り合ってもらえない。
普通ではない。精神病患者なのだから。
治療という目的で入れられた病院で、絶望と直面することになるとは思わなかった。
耐えられない。どこにいても耐えられない。救われるはずの病院の中でさえ追い詰められる。
やはり何も感じられない廃人になる以外、救われる方法はないのだろうか。
死なずに家へと引き返した自分を深く後悔した。
もう、いいだろうか。再び公衆電話のある場所へ戻ってみた。別の女性が使っていた。電話にうなだれかかって泣きながら話している。
夫と話しているらしい。お姑さんの悪口と子供の話をしている。
当分、終わりそうにない。
病室へ戻ると、隣の子が大イビキをかいて眠っていた。
薬のせいでイビキをかくこともあるが、もしかして彼女は毎晩この調子なのだろうか。
病室を出ても、病室へ戻っても、どこにいても休まらない。落ち着ける場所がない。
彼に会いたい。彼と一緒に、ただ二人だけで静かに過ごしたい、何もいらない。彼と一緒にいられれば、それだけでいい。
家も家族も、すべて捨てると彼に誓った。
一緒に暮らせないことは知っている。経済的な援助は必要ないから囲って欲しいと頼んだ。
全部捨てて一人で暮らすから、あなたのお妾さんにしてくださいと。
「それじゃ、あまりに酷すぎる」
彼は、私にそういった。でも、こうして蛇の生殺しのような状態を続けることは酷いことではないのですか。それは言えなかった。
言えずに、ただ自分を持て余し、自分の感情を、自分の愛情の重さや激しさに押し潰され、耐えきれず死を選んで失敗して、ここにいる。
私は、どうしたら良いですか。
ねえ、あなた。私は、いったいどうすれば良かったのですか。死ねなくて、ごめんなさい。生きて帰って来てしまって、ごめんなさい。
死ねないと分かった、あの瞬間に どうしても、もう一度あなたに会いたくて。もう一度だけ、あなたに会いたくて、帰って来てしまいました。
それなのに薬を飲んで、こんなことに。
彼に会いたい。彼の声が聞きたい。彼に触れて、彼に触れられなくても、彼の言葉を知りたい。
私のしたことは間違っていたのですか。
私は、あなたに捨てられてしまったのですか。
教えて。あなたの口から、あなたの声で。
再び公衆電話の場所へ戻ってみた。さっきの泣いていた女性はいない。
彼女が置き忘れたのだろうか、タオルのハンカチがグシャグシャに握られた状態のまま、公衆電話の設置されている台の上に置かれていた。
慣れた番号をダイヤルする。彼の病院は、以前 私も勤めていた。伝言した事務担当者が電話口に出てきた。
「ああ、先生 当直室へ戻られてますよ。今、電話回します」
やっと、やっと話せる。やっと彼の言葉が聞ける。このとき、この瞬間をどれほど待ったことだろう。
電話の保留音。長い。とても長い。
「もしもし」
彼の声だった。やっと話ができる。
「お仕事は?今、話していて大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「・・・ごめんなさい」
「うん」
「あの・・・」
言いたいことは山のようにある。聞きたいこと、話したいことは、山のようにある。
でも、何から話していいか、わからない。
「あの・・・」
「なに」
「待っていてもらえますか?私が、ここから出られるまで」
「・・・」
「私が退院するまで、待っていてもらえますか?」
「待つよ。ずっと、待ってる」
「本当に?」
「待っているから、ちゃんと治療して、早く治すことを考えなさい」
「ありがとう」
「じゃあ、切るよ。まだ、仕事中だから」
「はい」
彼は、静かに電話を切った。私は受話器を持ったままで、泣いていた。
待つといってくれた。捨てられた訳じゃない。私は、彼に、まだ・・・。
精神病院、入院初日。
待つといってくれた、彼のひとこと。
でも、ここからが 本当の苦しみの始まりだった。
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