第六話 路線図
第六話 路線図
単独外出許可が出てから、ほぼ毎日のように数時間 院外へ出た。
目的も予定もなく、会う約束のある人がいる訳でもない。そんな外出だから時間を持て余す。
病棟から外へ出たい。気持ちが向かうのは、ただそれだけだった。精神的に健康な状態なら、これほどの余暇はないだろう。三食昼寝着き。
一日中、寝着のままでも誰にも咎められない。掃除洗濯など家事をする必要もなく、ホテルか温泉のような生活。
そう思えたら、どれほど楽か。それは入院患者全員が思っていること。
この病棟で生活している限り、自分は何を考え何を訴えても「患者」としてしか対処してもらえない。
傷付いた心を抱えあってお互いに目に見えない相手の傷に触れないように触れないように過ごす。
自分のことさえ、自分の感情さえ処置しきれない状態の時に精神疾患患者に取り囲まれて、常時 接触しなければならない
。健康なときでさえ、そうした患者と共に生活するには、相当の体力と精神力が必要になる。
休んで治療に専念するようにといわれて、できる道理がなかった。
ホテルかどこかに部屋を借りて半日だけでも休めたら、とも考えたが、単独外出の規約には宿泊施設の利用は禁じられていた。
それには、また別の外泊許可が必要になる。単独外泊、同伴外泊。宿泊施設を利用するという行為自体も問題だった。
元気な状態なら、美容院へ行くとかヒーリングサロンへ行くとか、様々な時間の使い方もあったかも知れない。
動く気力がなく、人混みの中、雑踏の中に数分いただけで動悸やめまいに襲われる。
思い付くことといえば、誰に気兼ねする必要もない場所で落ち着きたいということくらい。
タバコと珈琲のある環境なら、あとはどうでもいいと思った。
入院中は、週に1,2度しか入浴できない。入浴中も一人にはなれなかった。
患者二人ずつ一緒に入浴させられる。一人だと衝動で何をするかわからないから。
私は、健康だったときから他人と一緒というだけで極度の緊張感と不安感に押し潰される人間なのに、
病棟内では決して一人でいることは許されなかった。
患者同士が監視しあえる状態。そこに身を置くことしか許されなかった。
動くこと考えること。何もかもすべてが重く、自分が今でも息をしていることが恨めしかった。
渓谷で死ぬタイミングを外し、彼にもう一度会いたいと思ってしまった私が愚かだった。
もう一度、やっと会えたのに、私は薬を飲んで自ら一緒にいられない状態を作ってしまった。
あのとき彼が、薬のせいで意識混濁状態だった私を雑木林の中に放置せず、
その日、予定の入っていた手術や患者さんや彼の生活にキャンセルを入れてでも、
私をなんとかしようと時間を割いてくれることがあったのなら、何かが変わっていたのかも知れない。
「もう少し待ってくれないか」
彼の、その言葉に耐えられなかった。耐えていたけれど。ずっと耐えていたけれど。
私の人生は、常に待つばかりだった。
いつも待った。当てがなくても、それがどれほど無意味なことであっても、いつもいつも待っていた。
暗い穴蔵の中で、暗い押し入れの中で布団の間で泣いている幼い私を呼びに来てくれる声を待っていた。
長い長い間、待って待って待ち続けて、泣きながら待ちくたびれて眠ってしまっても、
翌日になっても、そのまた翌日になっても、私を呼ぶ声、迎えに来る声は聞こえては来なかった。
ただ暗闇だけが静かに私を包んでくれているだけだった。
誰も来ない。当てにしてはいけない。待ってはいけない。期待してはいけない。今度こそと、そう思ってはいけない。
それは分かっていた。そうしたすべてのことを、もしかしたら彼なら壊してくれるかも知れないと思った。
私のために、動いてくれる人。考えてくれる人。私のために何かを犠牲にしてくれる人。
薬を飲むことで彼にそれを求めて、ただ最悪の迷惑をかけるというだけの結果で終わってしまった。
何もしてくれなくて良かった。ただ、ひとこと「大丈夫」と、「大丈夫だから」と、そのひとことが聞きたかった。
「怖がらなくていい。心配しなくていい。大丈夫だから」その一言に恋い焦がれて、本当に求めて求め続けて切望して、でも叶わなかった。
大丈夫だからと、いいながら、ただ泣いている私の頭を撫でてくれる手があれば、それだけで良かった。
それだけで十分だった。
守られているという安心感が、頼らせてもらえているという安堵感を、ほんの一瞬だけでも感じられれば、それで十分だった。
一人では居られない。誰かがいなくては生きて行けない。でも、誰もいない。
人に触れると傷付く。常に傷付く。
相手に対する思い入れが、その期待が強過ぎるから、誰もいないから、誰か相手があると、異常な強さで期待し始める。
それに自分で歯止めをかける。
「決して期待してはいけない」と、「今度こそ」などと考えてはいけないと。
そんな悪循環を彼が断ち切ってくれるかも知れないと思った。
死に損なって帰った私が彼の前で薬を飲んだら、ほんの少しでも「なんとかしてあげなくては」と考えてはもらえまいか、
現状を変化させる方向へと動いてはくれまいか、と。
私は何を期待していたんだろう。
そんなことをして彼の愛情を測ったところで何の意味もない。
測った訳ではない。助けて欲しかった。
現状から私を連れ出して欲しかった。連れ出して手を引いて、別の部屋の椅子へ導いて座らせてくれるだけで、ただそれだけで良かった。
落ち着いて座れる部屋の小さな椅子に座らせてさえもらえれば、私は いつまででも、その椅子に座って待った。
いつかは、お迎えが来るとわかっていれば、どれほど長い時間でも待つことは辛くない。
来るか来ないか分からない。たぶん来ない。
自分は一人。期待してはいけない。待ってはいけない。。。
何も考えたくなかった。自分が今こうして生きていることの意味さえわからなかった。
入院中、食事を拒否して絶食して死期を待っても、強制的に薬剤投与されて体の中に栄養分を入れられてしまうので餓死もできない。
とにかく生きなければならない。病院の中に居る限り、病棟に居る限り死ぬことは許されない。
こうして外出許可が出たのだから、院外に出られた隙に自殺すれば良かった。
それで、すべて解決する筈だった。それなのに私はだらしなく生きて、彼からの連絡を待っていた。
あの日以来、何の連絡も来ない。どれほど待っても、私が何度、連絡をしても返事は来なかった。
彼の気持ちがわからない。彼の考えていることが知りたかった。
もう終わりにしたいのか。別れたいのか。私を捨てたいのか。私に消えて欲しいのか。それとも。。。
彼からの連絡が来るまでは生きていよう。そこまでなら我慢できるかも知れない。
別れようと言われたら、そうしたら死ねばいい。「必要ない」と、そういわれたら消えればいい。
でもずっと。4年間、常にお互いにお互いを必要だと思い続けてきて、
日々重くなる私のうつ症状と突然の失踪、自殺未遂、薬物の過量服用。彼を無視して、私一人で勝手に動いた。
勝手に我慢できずに衝動的な行為を繰り返した。
これに対して、彼が今 どう思っているのか。どう考えているのかが分からなかった。彼の気持ちが聞きたかった。
駅前の書店で、あまり負担にならなそうな軽い単行本を数冊買って、それを持って いつもの駅ビルの中の喫茶店へと通った。
頻繁だと店員さんに不信に思われるのが嫌で、他にも数件の喫茶店をグルグルと。
本を開いていても、字面を追っているだけで文章は頭に入ってこない。それで良かった。
本を読んでいるんだと周囲の人から見えれば、それで良かった。
なみなみとブランデーを入れたブレンドを飲みながら何度も灰皿を交換されながら、
本を読んでいる姿で喫茶店の奥の席に壁にもたれて座り、彼から連絡を、彼の一言を待った。
いくら待っても彼からの聯絡は来ない。何の返事もない。
それがすべてを物語っていると思わなければならないのでしょうか。
永遠に来ない、あなたからの返事を私は待つことになるのですか。
ごめんなさいと、ちゃんと謝らせてください。私が馬鹿でした、愚かでしたと。
病院へ帰ったら、また携帯は没収される。メールも電話も自由にはならない。
病院へ戻る時間になり、私はフラフラと席を立ち、それでも常連になってしまった店の割引券を出して支払いを済ませると
病院の送迎バスの来るロータリーへと向かった。私が待っていて来てくれるのは交通機関くらいのもの。
ロータリーへ向かう途中、駅の構内の切符売り場前を通ったとき路線図が目に入った。
数社の鉄道路線が交差している自分のいる駅名を見付けたあと、彼の勤務先の病院がある駅を探して驚いた。
今いる駅から彼のいる所までは、うまく乗り継げば1時間程度で着く。
距離は離れていたけれど、そこまでの移動時間はそれほどかからない。
「今日は、無理だけれど」
単独外出。外出先は自己申告。GPSで看視されているわけではない。
明日、出られたら、外出できたら彼の所まで行ってみよう。
彼の所へ行って話を聞いてみよう。なぜ連絡が来ないのか、どうしてなのか聞きに行ってみよう。
病院へ戻るまでの時間、駅でもらった時刻表と携帯を使って、明日 往復する電車の乗り継ぎ駅と時刻を自分宛に携帯でメールを送った。
病院へ帰ったら手荷物だけでなく、身につけている物すべてのボディチェックを受ける。
下着の中も。病棟内へ危険物、禁止物の持ち込みをしないように。安全確保という名目の管理と拘束。
時刻表を見付けられたら、私が電車に乗ろうとしていると疑われる。
場合によっては、「まだ、そこまでは無理です」と、明日の外出許可を取り消されるかも知れない。
病院の送迎バスが来た。時間より15分ほど遅れて。
バス停から遠い場所で待っていた私は周囲の人に気付かれないよう足早にバスに乗った。
「キチガイ病院へ帰る患者さん」という目で見られたくなかったから。
哀れみと蔑みと好奇心。そういう目で見られたくなかったから。
空気のように、自分の存在を消したかった。
ここにはいない人になりたかった。
バスに乗る前に駅前のゴミ箱に電車の時刻表を捨てた。
明日、行ってみよう。あの人の所へ。
