第五話 箱根
第五話 箱根
それでも、幸せだと思った日もありました。
彼と知り合って1年以上経ってから、箱根へ一晩だけの旅行へ行きました。
その日、彼は当直明けで顔色が悪かった。でも、それはいつものことで熱心に患者さんと向き合っていると
どちらが病気なのかわからないほど、身体はボロボロになってしまいます。
「少し休んでからにしますか?大丈夫?」
「大丈夫。行こう」
東京駅の裏手で待ち合わせて、彼の車で河口湖へ。
河口湖畔にある円形ホールでチェロのリサイタルがあって
プログラムは私の大好きなバッハの無伴奏チェロやG線上のアリア。
友人と呼べる人間など皆無で家族以外と外出のできない私が
一晩でも泊まりで旅行に出るというのは信じられないほど大変なことで、
それほど無謀なことをしても構わないと思った自分に驚きました。
お昼過ぎに、河口湖に着いて こじんまりとしたホールの中は暖かな午後の日差しが差し込んでいました。
数十人しか収容できない小さなホール。
その中で、彼と並んで座りチェロの独奏を聴きました。
当直で寝ていなかったらしく、彼は途中でうたた寝をし始めてしまい、
私に寄りかかって眠っていることに気付く様子もなく、
彼のかすかな重さを感じながらリサイタルを聴いて。
ホールの中に響き渡るチェロの音色。
この日の奏者は女性でしたが、私は昔から男性が演奏する楽器で
一番セクシーなのはチェロだと思っていて、好きな男性にチェロのように抱かれたいと、
そんなことを考えたりしていました。
小品をいくつか演奏してリサイタルは終わり、そのあとホールで簡単なティーブレイクがあって茶菓が供されました。
終演間際に、うたた寝から覚めそうになった彼を、そっと彼の座席の位置まで押し戻し、彼が私にもたれかかっていたのがわからないようにしてから間もなく
彼は目覚めて少しバツが悪そうにしていましたが、私は気付かないふりをして、そのままアンコールの拍手をして「良かったわね」と。
一緒に紅茶とクッキーをいただいて、そのまま箱根へと向かいました。
この日、大きな台風が近付いていて空はどんよりと重く暗く道を進むに連れて雨脚は強くなり、箱根に入った頃には暴風雨に変わっていました。
泊まったのは富士屋ホテル。私の好きなホテルです。
強羅花壇と富士屋ホテル、どちらにするか迷いましたが、何度頼んでも彼が私の宿泊費を受け取ってくれないので負担の少ない富士屋ホテルを選びました。
「どこでも好きな所にしたら良かったのに。今からでも、変えようか?」という彼に
「せっかく着いたのに、疲れたでしょう?ここがいいです」と。
ホテルの予約は、彼の名前で入れました。チェックインの時、彼は宿帳に、どうサインしたのでしょう。
同泊者の欄に何と書いたのでしょう。私の名前だけを書いてくれていたら。そうしたら「妻」のように見えるのに。
花御殿の桐の間へ通されて、アンティークな室内に落ち着くと、二人ほっと溜息をつきました。
「来られたね」
「そうですね」
「大丈夫?」
何も答えず、ただ笑って、彼に抱き寄せられて静かにキスをして。
耳の奥に、まだ昼間のチェロの余韻が残ったまま、窓の外は暴風雨で木の枝が風に揺られて葉を散らしていました。
「お風呂に入ってくる」
「どうぞ。お夕食まで、まだ時間があるから出たら少し眠ったら?」
「そうだね。ありがとう」
彼は、お風呂から出ると美味しそうにビールを飲んで、そのままベッドで軽い寝息をたてながら眠り、私は少し離れた椅子に座って、眠っている彼を見つめていました。
当直明けで疲れているのに、こんなところまで連れて来てくれて。お互いに、この日しか動ける日がなくて。
夕食のために、私は持ってきたワンピースに着替えていると彼が起きてきました。
「持ってきたの?」
「ええ。大切な日だから」
「そう」
彼は、軽く笑った。
メインダイニングへと案内された。メインダイニングの中でも、一番良い席でした。
ドレスコードは、それほどうるさくないホテルだったけれど、良い席に案内してもらえるかどうかは、その席にふさわしい宿泊客であるかどうか、
悪い言い方をすれば、ある程度ホテル側に値踏みされる。
一番良い席に案内されたことを、彼は満足そうだった。そうしたことを、うれしいと思うかどうかは人それぞれ。私たちの場合は、それがうれしかった。
それは、ほんの些細なことだけれど気持ち良く過ごせるかどうか。今夜は特別な日なのだから。
アペリティフを選び、前菜が運ばれてきた。周囲は、家族連れ、カップル、女性同士、いろいろだった。比較的に年配の客層が多いのが落ち着ける。あまり気付かなかったけれど、メインダイニングは満席。
ここで、私は彼とあまり話さなかった。
時折、一言二言会話して、あとは やっと人目を気にせず二人きりになれる場所、二人きりになれる時間に来られたことを感じていた。
目が会うたびに微笑んで。
窓の外は暴風雨。台風が直撃するという。
「明日、帰れなくなったら困るね」
「そうね。もし、そうなったら」
「そうなったら?」
このまま二人でいなくなれたら良いのに、と。それは言えなかった。彼は仕事が第一。どんなことをしてでも患者さんの待つ病院へ戻るというに決まっている。
「迷惑をかけるといけないから、もしそうなったら動いている電車を探して一人で帰ります。動けそうな所まで車で送ってもらっても良いですか?」
「そう。わかった」
このまま消えましょう。それは言えない。
今、ここに一緒にいられる。この瞬間だけ。これ以上、幸せなことはないのだから。
私たちは、これからどうなるのでしょう。どうしたら良いのでしょう。
お互いに誰よりも必要だと思う相手が目の前にいて、お互いに気持を決めれば、それですべて終わる。
お互いに手を取り合って、一から始めましょうと、簡単にそう言える間柄だったら、どんなに楽だったことか。
彼には背負う家があり、継ぐべきものがあり、大勢の患者さんが彼の帰りを待っている。
他のすべては変えられても、他のすべては私のために与えてくれても、どうしても離婚だけは許されないことだった。
「もし、私が」
「・・・?」
「家を出て、一人であなたの通いを待つようになったら来てくださいますか?」
「それは?」
「そういうことでは、無理ですか?」
「それでは、ひど過ぎる。何か考えるから もう少し待ってくれないか。結論を急がないで」
「はい・・・」
考えたら、何か良い方法がありますか。
私がお妾さんになって、あなたの通いを待つより他に何か良い方法がありますか。
以前、あなたは言ってくれたじゃないですか。自分にもう少し力があったら、と。
あなたのお父様やお母様や、あなたの周囲の力のある方々が、その力を失っていくまで待てば、いつかは報われますか。
私の幼い子供たちが自立して、一人で家庭を持って生活をしていけるようになったら、
その時が来たら、私は晴れて家を出ることが許されて、あなたの所へ行くことができますか。
「あと5年」
いつか、彼はポツリと言ったことがあった。
「あと5年、早く知り合えていたら」
彼は5年前に家の決めた相手と結婚していた。お互いに医師の夫婦。仕事で擦れ違いばかりで書類上の戸籍の上だけの別居中の夫婦。
それでも夫婦であることには変わりない。
どんなに彼に愛されていなくても、彼の妻として、彼とともに彼の家族の集まりに並んで座るのは、彼の妻だった。私ではない。
私は、彼の家にしてみれば、とんでもない疫病神で決して許されない存在で。
今、こうして人目を忍ばなければ一緒にいられないということが何より私の立場を明確に現わしている。
私は彼の家庭にとって害虫で、それは私の家庭にとって彼も同じこと。
でも、お妾さんだったら、もしかしたら私の存在は認められはしなくても
そういう人間がいるという事実は知ってもらえるのではないですか。
今の幽霊のような存在ではなく。
自分の存在、魂すべてが共感し共鳴しあえる相手と、それでも出会わなければ良かったのかどうか。
そういう人がこの世にいると知らずに済めば、世の中こういうものだと諦めて、それで生きて行けたのかもしれない。どうして、この人と出会ってしまったのだろう。
もう知らなかったときへは戻れない。
食事の後、部屋へ戻って
「おいで」と促されて、私は彼に抱かれた。
周囲には何も音はなく、私の声と窓に叩き付ける風雨以外、何も聞こえなかった。
今夜は、ずっと一緒にいられる。それが何よりもうれしかった。
私は、ずっと彼に縋り付き声を殺して泣いていた。
今は、何も考えるのはよそう。何も考えず、ただ こうして彼と一緒に。
愛する人の胸に顔を埋めて泣けたのは、これが初めてだったかもしれない。
彼は私を抱きしめて、何度も何度も私の名を呼んでくれた。
静かな力強い腕の中で、ずっとこのままでいられたら。
このまま永遠に一緒に消えて欲しいと、そう願いながら。
彼は、やがて眠りに落ち、私は一人寝付かれぬまま窓の外を見ていた。
台風の真下。窓は開けられない。
既に深夜は過ぎて、ホテルの庭園灯に照らし出された木々の影が
風雨に打たれ、折れそうなほどにしなりながら葉を擦り合わせて揺れていた。
ずっと、このまま朝が来なければいい。
嵐も止まず、永遠にこのまま風が吹き荒れて、私達をここに閉じ込めてくれたら。
時計の針が、ゆっくりと確実に動いていた。
お願いだから、もう少し待って。もう少し、あと少しだけでいいから。
夜明けなど来なければいい。
どうか、お願いだから、私達をこのまま、そっとしておいて。
彼が眠った後、お風呂の中で湯船の中に顔を沈めて また泣いて
ぼんやりと、ただ揺れる木々の梢を見ている間に夜が明けてしまった。
ぼんやりと白んでいく。台風は通り過ぎて行った。
「行っちゃった・・・」
台風は、もういない。帰らなくてはいけない。
今日は、それぞれの家へ帰る日。
まだ眠っている彼を起こさないよう、私はベッドルームを出てお化粧をした。
鏡の中の顔は、幸せなのか不幸なのかわからなかった。
とてもうれしそうで満ち足りた顔をしているのに、とても暗い表情。
ふたたびメインダイニングへ案内されて朝食をとった。
彼は、今日の予定を楽しそうに、いろいろと話していた。
美術館へ行こうという彼。
あまり人の来ない、小さな美術館があるから、そこへ行こう。
少しでも誰にも邪魔されずに二人だけで一緒にいよう。
そういってくれることが本当にうれしくて、今更のように
「ここにいる間だけ、夫婦のふりをしていてもいいですか?」と聞いてみた。
「夫婦にしか見えないだろう」
そうかしら。他人が見たら、私達は訳ありの連れにしか見えないと思うけれど。
「じゃあ今だけ、あなたの奥さんでいてもかまわないですか?」
「ずっと、そのつもりだよ。気持ちだけでも夫婦でいよう。これからも、ずっと」
「・・・」
とても嬉しかった。そして、とても悲しかった。
チェックアウト。ホテルのカウンターで彼が支払いを済ませる。
もう、来られない。たぶん、もう来られない。
これが最後。最初で最後の旅行。
もう一度、また来る機会など あろうはずはない。
「じゃ、行こうか」
「はい」
「また、来たいね。今度は、強羅花壇にしようか」
「そうね・・・」
わざと明るく振舞っているの、それとも本当にそう思っているの。
私には彼の気持ちが、わからなかった。
いつも希望を持つことを抑えてきた。子供の頃から、ずっと。
期待すること、希望を持つことこそ、私にとっては最大の不幸だったから。
望まなければ叶わずに失望することも落胆することも絶望することもない。
望まないこと、希望を持たないことが、私が平穏でいられる最も良い方法だった。
「期待させないで」
言葉に出さずに彼に、そういった。
私に期待をさせないで。お願いだから、今のままで、このまま そっとしておいて。
彼のいう美術館へは、峠を越えて山道をずっと走らなければならなかった。
昨夜の台風で道路は所々寸断されていたり、落木で迂回しなければならなかったりで
美術館へ着いたのは、予定の時間をかなり過ぎていた。
やっと彼のいう美術館に着いた。
私達の他に客は数名。
この台風の中、こんな誰も知らないような美術館を訪れる人などいない。
「誰もいないだろ?」
彼は、うれしそうに笑った。
「滑るから」
彼は、私の手を取って一緒に傘の中に入れてくれた。
駐車場から美術館までの、ほんの数十メートルの道を、私は彼の腕に縋り付いて歩いた。
縋り付ける腕と私にさし掛けてくれる傘。
それがとても嬉しくて、しがみ付ける腕があることが、とても嬉しくて。
美術館の中で、彼はお母様の陶芸の話をした。
学生の頃、よく陶芸用の土を運ぶ手伝いをさせられた、と。
「いつか、私もやってみたい」
「楽しそうだから、試してみるといい」
「そうね」
日本画や陶芸作品の展示されている美術館。
二階へあがると、仕切りのない大きなガラス窓の向こうに芦ノ湖が見えた。
遊覧船が動いていた。空は、所々晴れ間が見え始めている。
「きれい。こんなに見晴らしが良いなんて。晴れたのね」
「ああ、ここなら天気が悪くても景色が見られると思って。これなら帰れるね」
どうして、そんなこというの。
「そうね」明るく返事を返して時計を見た。
そろそろ帰路に着かないと、無理をいって実家へ預けている子供たちがいる。
帰ろうといわないで。お願いだから、あと少し待って。
「お茶でも飲もうか。ホテルへ戻ろう」
「え?」
「あそこのテラスで、お茶を飲むのを忘れた。戻ろう」
「ホテルへ戻ったら時間が」
「まだ、もう少し大丈夫だろう。お子さんたちが心配なら電話してみたらいい」
美術館を後にして、ホテルへ戻る彼の車の中から携帯で実家に電話を入れた。
台風の影響で交通機関がマヒしていて、タクシーを見つけ次第帰るからと告げた。
実家の反応は心配とは裏腹に穏やかで「道中、気をつけて帰るように」と言われ電話を切った。
「誰と話していたの?仕事先?」
「いいえ、実家の両親と」
「だって敬語だったでしょう?今」
「うちは、そうなの。ずっと」
「そう。職場の人かと思った」
「あなたのおうちは?普通に話すの?」
「そうだね。会話は普通だね。普段、敬語は使わない」
「そう」
普段、ということは、普段じゃないときは、やっぱり使うのね。
同じ。似ているのかしらね。そんなところも。
もう二度と一緒に来られないと思っていたホテルに、その日のうちに、また戻ってきた。
テラスに座って、紅茶とケーキを頼んだ。
「これが済んだら、いいね?」
「はい」
彼はテーブルの上で、私の手を握りながら
「もう一度、来たかった。一緒に」
「ええ」
もう一晩泊まりたい、また一緒に来たい、と、彼は言わなかった。
それを言えば私が、その場で泣き出すとわかっていたから。
ここへ戻って、このホテルへもう一度戻って私に心の準備をさせてから帰路に着かせてくれた。
冷静になりなさい。気持ちのままに奔ってはいけない。
大切なことなのだから、慎重になさい。
せっかく二人で苦労して努力して、ここまで来たのに、それを無駄にしてはいけない。
辛いのは同じ。落ち着きなさい。彼は、そういいたかったのかもしれない。
この人となら大丈夫。
今度こそ、信じて。人を信じてみよう。愛しているのだから、きっとできるはず。
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