ご訪問ありがとうございます。このブログには一部の方には不快な表現内容も含まれています。あらかじめ、ご了承ください。当ブログへのコメント・メッセージは一切受け付けておりません。 忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

第四話 単独外出



第四話 単独外出


 私の精神状態が不安定だと彼が気付き始めたのは、私の誕生日頃。
見る見るうちに摂食障害でミイラのような体型になっていったのだから誰にでも分かる。
我慢する、耐えることには、相当慣れていた私だったけれど。
彼の愛情を繋ぎ止めたいという不安もあったが、それ以前に常に誰かに縋り付きたいという焦燥感があった。助けて欲しい、かばって欲しい、支えて欲しい。
依存心・依頼心。甘え頼ることに餓えていた。ある子供の時期に、子供らしい子供でいることを何らかの環境下で失った人間は、永遠に自分の中の子供の部分と戦わなければならない。甘えたい泣きながら縋り付きたいという願望を満たしてくれる対象。それを切望し続ける。そして既に大人になってしまった自分を持て余す。
私が求めていたのは、静かで穏やかな父性だった。でも、それは見付からなかった。夫にも彼にも。夫とは10歳ほど年が違う。年齢差だけあって考え方は非常に冷静だし、決して感情に激することはない。いつも淡々として穏やかで、ゆったりしていた。それがとても心地良く、感情のままの言動で私を怯えさせた父とは正反対だった。だから、私は「この人となら大丈夫だ」と安心した。この人の感情の起伏に怯え、常に顔色をうかがう必要はない。安心して息ができる。そう思った。
でも、叶わなかった最大のこと。私にとって最も重要だったこと。頼れなかった。縋り付いて泣かせてはくれなかった。どこか傍観しているかのような夫。冷静で、それは言い方を変えれば計算していて、頭の中で設計図が出来上がるまで決して動こうとはしない人だった。元来子供で、それなのに子供でいられなかった私にとって、違う意味で子供扱いされてはいても、どこか真剣に向き合ってはくれなかった。私の心の痛み、孤独感が自分の生きてきた環境にはなかったものだから、どうしても理解できなかったらしい。今、なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか。表面的には理解してくれていたが、それを心底理解してくれてはいなかった。それでも父にはなかった安心感。私を怯えさせない穏やかさに惹かれて結婚した。結婚を躊躇する私を6年間待ってくれた人。それだけで十分信頼に足る人だと思った。
夫と知り合うまで、私はお付き合いした男性は皆無で、22歳の時、夫に抱かれるまで男性を知らなかった。それを一番驚いたのは夫だった。 とても意外そうだった。いくらなんでも、その年齢なら一人か二人くらい男性を知っていても不思議ではないと思っていたらしい。極端に人との接触に神経質だった私が、男性関係などあろうはずもなく、常に自宅と出先を往復するだけの生活しか送っていなかった。合コン、飲み会、同窓会。100パーセント無縁だった。人の集まる場所が恐ろしかった。人の感情に触れるのが恐ろしかった。自分の周りで他人の喜怒哀楽が見えるのが、その感情が、いつ自分へ飛び火してくるのか、いつ傷付けられなければならないのか。それを思うと、人と接することなどできるはずがなかった。
夫と知り合ったのは、職場の先輩の紹介だった。私が、その先輩と一緒に写っている写真を偶然見た夫は、私を指さして「紹介して欲しい」と先輩にいった。以前から、ずっと気になっていたと。そして私は先輩に促されて夫と会い、それから6年後に結婚した。ごく普通の会社員の家庭に育った夫を私の家は嫌った。別の相手を、違う相手をと。そのとき、親の言うなりになって親の決めた相手と結婚していたら、今のような寂しさは感じなかったのかも知れない。でも、それはそれで、また別の、もっと割り切れない寂しさに包まれていたと思う。
それに何より、夫と結婚しなければ、私が彼と同じ病院で働くことにはならなかったのだから。
夫との結婚も、彼との出会いも、すべては決まっていたことなのかも知れない。夫にしてみたら、それは大きな誤算で大きな裏切りだったけれど、私にとっては必要なことだった。そして40歳になった今、私は夫と彼以外、他の男性は知らなかった。それだけで十分だったし、そういう意味での欲はあまりなかった。夫とも彼とも、そうした行為はあまり楽しいことでも心地良いものでもなく、ただ私の体を必要としてくれるということ以外、私にとって喜びの対象ではなかった。彼と会うのは、いつも決まったカフェ。そこで何時間も1,2杯の珈琲を飲むだけで、ただ延々と話していた。今、私がこうして一人で仕事ができるようになった基礎を作ってくれたのも彼。いろいろと教えてくれた。仕事も家庭環境も生い立ちも、そのすべてが似通っていて、まるで自分の分身と対話しているかのような彼との時間が愛おしかった。夫にはない、彼との共通した感情があった。夫には消して理解できずにいた私の感情を、彼にはそれを説明する必要さえなかった。仕事も価値観も共通していて、共感し会える相手。生まれて初めてだった。心を開いて、心の底を割って、ごく普通に自分を作らず、偽らず、自然体で接することができる相手。そんな人に生まれて初めて出会った。親兄弟にでさえ心を許せず、常に緊張にさらされていた私にとって、これほど心地良く自然に楽に話のできる相手。ただ一緒にいるだけで安心感の持てる相手は初めてだった。恋愛感情以上の存在。私にとって、唯一、私が自然に振る舞える大切な相手だった。
「この人となら」
心の底からそう思わせてくれた。たぶん、私は死ぬまでの間に、これほど理解し合える存在とは巡り会えないだろうという確信があった。その人から何も連絡が来ないということは、待っているといったのだから信じて、治療に専念するようにということなのかも知れない。彼も何度も私が必要だといってくれた。私でなければ駄目だと。何も疑うことはない。彼が離婚できないという以外、問題はないはずだった。
でも、それには大きな障害が一つ。私には子供がいるという事実。夫と家庭は捨てられても子供は捨てられない。それに何より、私は順番を大きく間違えていた。夫にキチンと離婚の話を持ちかける前に、うつ病が悪化し、自殺に奔り、それに失敗して精神安定剤と睡眠薬の過量服用で強制入院。これでは彼にしても私にしても動きようがない。自分で自分の方向を潰してしまったようなものだ。ただ、自分と自分の環境を顧みず、自分の立場もわきまえず、余所の男に夢中になっている、ただの頭の壊れた馬鹿な浮気女でしかなかった。
なぜ、もっと冷静に子とを運べなかったのだろう。冷静になどなれなかった。夫のように頭の中に設計図を描いてから行動に移すなど、私にはできなかった。彼のすべてが必要だった。彼の存在、すべてが。彼は恋愛の対象としてだけではなく、私の絶対無二の親友でもあった。それなのになぜ。
私の軽はずみな行動を彼は怒って、それで私が頭を冷やすまで連絡を絶っているのかも知れない。彼と同じ病院に勤めていた頃も、彼は仕事で忙しく、ほとんど職場で顔を合わせるという機会もなかったし、私が職場を変わったり、彼が異動になって別の関連病院へ移ってからも、会えたのは月に1度か2度。その間、連絡が来ない日の方が多かった。こんな状態だから不安で、まったく連絡が来ない様な気がするだけで、冷静に考えれば、いつもと変わらない。そう。いつもと何も変わらない。

本当に、そうだろうか。信じていて良いのだろうか。

それから数日後。私は担当医に呼ばれ診察を受けた。
まだ30代半ばくらいの担当医。女性ファンの多いタレントと似ている。本人もそれを意識しているらしい。どことなく話し方に、そうした雰囲気が漂っていた。
「夜は、眠れていますか?」
「いえ。あまり」
「薬は、どうですか?あわない様な感じはありませんか」
「いえ、特には。良く分かりません」
「そうですか」
カルテに、いろいろと書き込んでいる。英語で書いていたが、私が病院勤めだったことを知っているのでカルテが私に見えるようには書かなかった。薬の処方だけカタカナ混じりで書いていた。投薬の指示で、いちいち看護師からカルテに書かれた内容の確認を受けるのが億劫だったのだろう。
「入院は慣れましたか?」
「いえ、なかなか」
「そうでしょうね。慣れないと思いますよ」
「はい?」
「この環境は、今の状態には少々辛いと思います」
「え?」
「単独外出許可を出しましょう。ご主人を待って外出するのでは、なかなかできないでしょう。外の空気に当たるのも気分転換になっていいと思います。そろそろ病棟の中での生活にも疲れて来ているでしょうから」
意外だった。そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「今度の月曜日から、単独外出を許可ということにしましょう」
「はい。ありがとうございます」

突然の単独外出許可。付添人なしで一人で外出しても構わないということだった。でも時間は決められている。そして決して遠距離の移動ができないよう携帯できる所持金の金額にも上限があった。一度に患者本人が所持しても良い金額の上限は8000円。何が基準なのか、わからなかった。8000円といっても、外出しても入院生活で必要な洗面道具や生理用品を買う程度。あとは持ち込み可能な食品類。おやつや果物程度だった。それでも単独外出というのは、入院患者にとっては羨望の対象で、入院生活の長い男性は、理髪店に行ったり、外食をしたり、映画を観たり。単独外出の場合、常識の範囲内での飲酒も認められている。精神疾患患者の常識の範囲内というのが、どの程度名のか、具体的な数字を示してもらわなければ分からない気もする。さしあたり、院外へ出られればどこでも良かった。とりあえず、いつも夫に連れられて通った駅前の駅ビルの喫茶店程度しか思い浮かばない。座り心地の悪い木の椅子に座布団の乗せられた長居するには辛い店内だったが、それでも好きなだけ他の入院患者の誰にも気兼ねなく一人でタバコと珈琲でボンヤリできるのは、うれしかった。少しは休まるかも知れない。
唯一、単独外出で禁じられていたことは自宅へ帰ること。
それそしたら入院している意味がないという。自宅へ帰りたいかどうかはわからない。家で、というより院外のベッドで他に精神疾患の患者の誰もいない場所で、一人でゆっくり休みたいという思いはあった。
子供達とは毎晩のように電話で話した。でも、まだ幼くて「お母さんは病気」ということ以外、何の病気なのか、なぜ入院しているのか、ということについては、何も理解していなかった。それは不幸中の幸いだったと思う。子供達のことが気にならない筈はなく、自殺で死に切れなかった理由は、子供達を残しては行けないということ。彼と子供達。それを考えると、死ねなかった。いつか、いっそあのとき死んでいてくれたらと子供達に恨まれることになるかもしれなかったけれど。
単独外出が決まっても、当日の朝までは同室の二人には話さなかった。どうせ、隠していても外出すればわかることなのだけれど、同室の二人は私より症状が重度だったから、単独外出は認められていなかった。それでも、私のいた病棟は一般病棟。もっと重度になると別棟の管理病棟に入れられる。そして、この病院には個室がなかった。患者同士見張っていられる状態にしておくためだった。患者を個室で一人にしたら何をするか分からない。唯一、個室が認められていたのは「監視病棟」と呼ばれる、常に看護師さんが隣室から監視している個別室。刑務所でいえば独房の様な所だけだった。症状が悪化したり、他の入院患者に悪影響を与えそうな状態になると、この監視病棟へ強制的に移される。
月曜日。午前中の病棟回診の後、私は外出のために身支度を始めた。お化粧をして着替えをする。同室の二人は、私が外出することに気付いたらしい。以前から、夫が面会に来てくれたとき外出していたので特に気にも止めなかったようだったのでホッとした。やっと一人になれる。入院させられてからプライバシーを守られた状態で一人きりになれるのは、これが初めてだった。半月ぶりくらい。一人になれる。それだけで心が軽くなった。
病院で定期的に駅と病院までの循環バスを出してくれている。通院・入院患者は、この循環バスを自由に使うことができる。病院の送迎バスなので乗車代金は必要ない。この地域には、私が入院していた病院の関連施設が全部で4ヶ所あり、バスは、駅とその施設間を循環していた。施設の中には、社会生活に向けて自炊・自活をしながらリハビリを受けている患者用の施設、アルツハイマーなど老人性精神疾患患者専用施設など様々で、私が入院させられていたのは、一般精神疾患患者用の施設だった。自炊をしている人達は、このバスで駅前まで出て、日常の買い物などをする。駅前は、それなりに開けていて私鉄・JRなど複数路線もとまる立派な街だったけれど、入院施設の周辺には何もなかった。あるのは畑と廃品処理工場とコンビニとパチンコ屋くらい。精神疾患患者を大量に収容する施設だから仕方がない。人里離れた場所、というのが条件になるだろう。
初めて一人で病棟を出る。ナースセンターを通して外出用の通路へ案内される。移動するたびに隔壁のドアの鍵を看護師さんが開けて通る。患者の脱走防止のため。看護師さんの腰には、鎖のキーホルダーにつながれた鍵がジャラジャラといくつもぶら下がっていた。それは刑務所の刑務官か監視官を思わせる。3つ目の隔壁を通り過ぎると、マンションの管理人室のような小さな部屋があった。そこで初めて外へと通じるドアを開けてもらえる。夫が面会に来てくれたときの同伴外出の時は、一般の通路を使って普通に出入りさせてもらえたが、患者単独となると、まったく違う。とにもかくにも患者の安全と保全が第一ということなのだろうけれど、つくづく自分のことを信用してもらえていないのだと思い知らされる。
「約束ごとは、ご説明した通りですが、そのプリントにも書いてありますから。何か外で不安なことがあったら、すぐ病院へ電話してください。動けないような、職員がお迎えに行きますから、無理はしないように」
「はい」
そういいながら案内してくれていた看護師さんは私に数枚の小さな紙を渡した。単独外出時の注意書きだった。具合が悪くなったら、すぐ病院へ電話をする。そう、私は病気で患者だった。体が不自由ではないというだけで心は不自由なのだった。初めてだから、くれぐれも無理はしないように。そう言われて門限を再確認させられ、初めて外へのドアの鍵を開けてもらった。
薄暗い通路に、突然 外の明るい光が差し込んで、一瞬 目がくらんだ。
外来受付から少し離れた場所に送迎バスがエンジンをかけた状態で待っていた。通院患者らしい人が数人、先に座っていた。通院患者は、たいてい薬局の袋を手にしているから、それと分かる。私は、外出用の身支度をしてお化粧をして普通に外出する状態にしていたから、通院患者に見えたらしい。それから、しばらくして数人、入院患者が乗り込んできた。彼らは、単独外出の常連らしく、仲間同士で楽しそうに話していた。ごく普通に会話しているのだが、その出で立ちが、ボサボサの手入れをしていない髪やジャージの上下にジャンバーを羽織っただけという服装で、どう見ても入院患者の買い出し、という感じだった。実際、そうなのだけれど、ああ、こんなものなのかなと思わされた。数カ所の関連施設で数人が乗り降りしたが、ほとんどは駅へ出るために最後まで乗っていた。
バスは、様々な送迎バス専用のロータリーに停車した。自動車教習所の送迎バス、地元どこかの工場の従業員用の送迎バス。いろいろな標識が並んでいた。その中の一つの前でバスが停まる。私の乗ったバスから降りていく人達を、通りがかる人達は「ああ、キチガイ病院の患者だ」という軽蔑と哀れみの混ざった目で一瞥しながら通り過ぎていく。このバスを利用すると言うことは、そういうことなのだ。初めて気付いた。このバスを利用すると、世間はキチガイ扱いしてくるのだ。守ってなどくれる筈はなく、近寄らないように、関わると何をされるかわからない、危険な人達だと。逆に、こんなキチガイ達を付き添いもなく世間に放置して、病院側は何考えているんだと言われるのがオチだったかもしれない。
私は、そそくさと俯いてバスを降りると、足早にバス停から離れて駅ビルへと向かった。私が、このバスの利用者だと周囲の人達に気付かれないうちに、顔を覚えられないうちにバスから遠離りたかった。そんなこと、心配する必要など何もないのに、そのとき思ったのは「私は異常じゃない。キチガイじゃない。そういう目で私を見ないで」ということだった。他人にとって、そんなことはどうでもいいことなのに。
他に知っている場所がある訳でもなく、駅の周りを雑踏の中で一人散策する元気も気力も、ある筈はなかった。化粧室により鏡に自分の姿を映してみた。普通の人に見えるだろうか。自分では判断できない。とても痩せている元気のないOL程度には見えるかも知れない。簡単な外出用の服の上に黒の短めのトレンチコート。10月も半ばを過ぎて、少しずつ肌寒くなってきていた。
いつもの通り、駅ビルの中の喫茶店へ入った。なるべく奥のテーブルに座った。平日の昼間だから、客は少ない。学生と買い物の合間らしいの主婦が数人。主婦らしい三人連れの客の話し声がうるさくて耳に付いたが、無視して一人席に座った。
「ご注文は?」
「ブレンドを。それとブランデーを一緒にお願いします」
「はい」
店員さんが去った後、何より一番うれしかったのは預けていた携帯電話を、この外出時だけは持たせてもらえることだった。今なら、Edyやsuica機能があるから外出時の携帯の所持も制限されているのかも知れない。でも、この時は、まだそうした機能は普及したいなかった。単純に情報ツールとしての役割しか携帯にはなかった頃だ。夫と一緒の時も同様に携帯を返してもらえたが、やはり夫の手前、自由に使うことはできなかった。やっと、携帯を自由に使うことができる。平日のこの時間、彼はもちろん仕事中。電話をかけてもでられる筈はない。私は彼の携帯の留守電に「連絡をしてください」という簡単なメッセージを入れると、メールチェックをしてみた。彼からの連絡は、何も入っていなかった。懐かしい彼とやりとりした過去のメールが履歴に並ぶ。しばらく、それを読んでいた。私が薬を飲んで彼の車に乗る、その寸前のメールが最後だった。「今から、行きます」そこから先、送受信履歴は何もない。
新規作成ボタンを押し、私は彼にメールを打った。
「とても不安です。連絡をください。時間のあるときでかまいません。メールをください」
お時間のあるときで結構ですので。これは、私が公私に関わらず必ず使う常套句だった。
お時間のあるときで構いません。
構わない筈などない。今すぐにでも話たいのに。でも、これが私だった。無理強いは人間関係の破綻のもと。
自分の要求を通そうとした瞬間から、相手は私を警戒し嫌い始める。それが恐ろしい。
だから、私は人にあわせることはしても、自分の要求を提示したことはない。
そうして、私は自分で自分を守ってきた。
注文した珈琲は、ブレンドなのに0.5リットルはありそうな量。この店は、それがウリなのだから。何でもBIGサイズ。アイスコーヒーは金魚鉢で、ジュース類はビールの大ジョッキに入れられて運ばれてくる。それを楽しみながら楽しく過ごす、というのが、この店の本来の目的なのだが、私のように、ただただ時間を潰したい人間にとっても、その半端でない量はありがたかった。添えられてきたブランデーを全部、マグカップに注ぎ込み、ピッチャーのミルクも入るだけ入れてグルグルとかき回して、一口飲むとタバコに火を付けた。
「やっと、一人になれた」
背もたれに寄りかかって、ゆっくりとタバコの煙を眺めながら、また考えた。いつまで、こういう状態が続くんだろう。いつまで、私は入院しているんだろう。退院したら、私はどうなるんだろう。一気に考えようとすると、目眩がして頭の中が混乱し、気分が悪くなった。うつ症状が現れ始め、院外で一人の時に物を考えるのは危険だということに気付いた。今、私が、ここで体調を崩したら、たぶん気を失うだろう。そうしたら救急車騒ぎになり、私は入院している病院へと戻されて。そうしたら、もう この店には来られない。私の顔を覚えられてしまう。あのキチガイ病院の患者だと、お店の人に覚えられてしまう。入店を拒否されることはないだろうけれど、次回からは私への対応は激変するに違いない。ここで一人で静かに過ごしたかったら、院外で穏やかに自由な時間を過ごしたかったら過激な行動は控えなければならない。特に過激な行動など、するつもりはなかったけれど、ほんのささいな考え事でさえ、私にとっては負担なのだと初めて気付いた。入院中、病棟にいるときには気付かなかった。普通の世界に一人で出てみて、初めて自分は病気で、普通の状態ではなく、非常に不安定で、とても社会の中で通常の生活ができる状態ではないことを悟った。手持ちぶさたで、お店の入り口にあったファッション雑誌を借りてボンヤリと見ていた。もう秋から冬に向けての記事だった。秋冬もの。着る機会があるだろうか。私は、これから先も生きていくの?彼は。彼とは、また会えるの?ダメだった。何を見ても、何も考えられない。考えようとすると頭の中がドンヨリと重くなり、何も考えられず気分が悪くなる。頭の中にドロドロとした鉛を注ぎ込まれたように、すべての思考がとまってしまう。そして、それでも考え続けると気を失って倒れるか、もの凄い勢いで死にたくなってくる。死にたい。死んでしまえばいい。こんな人間が生きていてはいけない。劣等感、虚脱感、嫌悪感、憎悪感。ありとあらゆる感情が覆い被さってくる。
「今日は、早めに病院へ戻った方がいいかもしれない」
院外で、少しでも不祥事を起こしたら、簡単に単独外出許可は取り消されてしまう。私は、自由を奪われて守られている。拘束された環境が唯一今の私を守ってくれる。彼でも、夫でも、誰でもなく。あの無機質なプライバシーのない監視下の精神疾患患者に囲まれた、あの環境だけが、今の私を守ってくれる唯一の存在。やはり、縋れるものなど、この世には存在しないのかも知れない。

私がすがれるものなど、この世には何もない。





最後まで ご覧いただきまして ありがとうございました。
PR